🌏はヒドイ…
なぜ、人はこんなにも選べないのか。虫ケラのように負けまくっても、ごはんを作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでゆく。それでも生きてゆかなくてはいけない。
吉本ばなな『キッチン』
この世では
なんでも起こりうる
何でも起こりうるんだわ
きっと
どんな
ひどいことも
どんな
うつくしいことも
岡崎京子『pink』
小さい頃は両親の魔法できれいなものばっかり!と疑いもせず身の回りを見てきたけど、思春期くらいになると身の回りレベルでちょっとずつ狂いはじめて、あれ、あたし中心に世の中はまわってるとまでは思ってなかったけど、何処までも本当に世の中は自分に無関心なのだ、とどこかで気がつく。
両親の魔法が一通り終わると自分がかけるがわになっていく。自立しなくてはいけない。私は極端に考えすぎて失敗して、家に一歩でも出たら誰かに殺されると本気で去年のある時期思い込んでカーテンを開けるにも緊張して家の中すら寝る前に不審者が潜んでないかチェックしてたし、盗聴機がないかの検査までした。
これも一種遺伝や思考ぐせという両親の魔法や呪いでもあるわけだけれど。
自立がまだ完了していない時期に世の中の闇、人の心の闇に触れると極端に世の中をとらえて怯えたり、パニックになったり、逆に自暴自棄になったりすることはとても自然に考えられる。だけど、生きていかなきゃいけない。多かれ少なかれ多数の人が経験していることだ。
日本は私小説の文化だし、私自身海外小説はあまり読まないので、ノンフィクションで書くものというとたいてい自分のことになってしまってつまらないな、と思う。
自分のことを書く行為なんて、いかに自分が好きか、もしくは嫌いか、さらに嫌いだと突き詰めてかいてやっぱりそんな自分が好きだということを書くのどれかになってしまう。ノンフィクションは傲慢。でも、このブログは捌け口で存在してもらっている。やっぱりノンフィクションのほうが書きやすい。正確に伝わらないけれど。
窓際のカーテンを開けれます。これがどんなに自由なことか。去年の自分はチラリと見ることすら怖かった。
自分の存在を全肯定してくれる人なしであなたは生きていけますか?
自分で自分を肯定することだけでもちゃんと立っていられている人を目指してきました。うーん、