知ってた

壁から壁へロープをはって、椅子を等間隔に置く。

その上へタオルケットをのせて洗濯ばさみでとめる。

タオルケットの中へはいると、椅子の柱のあるおうちの出来上がり。

キッチンセット、おもちゃのごはん、おかね、ぬいぐるみ達を配置して、生活の始まり。

おはよう、今日のごはんはトマトです、はいどーぞ。

従妹たちと生活をおくる。

ここに洗濯ばさみで紙をとめて、ここにはお花を飾って、土台を作れば二階の物置の出来上がり!

生活の工夫をこらし、夜の時間で寝転んで見上げる花柄のタオルケットの天井にときめき、いつまでもこうやって遊びたいと思った。

 

 

 

思えば何も変わってなかった。

親元を離れて、生活の工夫をこらして、安心して暮らしたい。私の願いはそれだけだった。

自分の名前で社会で勝負したり、きらきらと着飾りたいという願いはもちろんあるけれど、小さなことだった。

 

言葉にしなくても、その楽しさを私は肌でわかっていた。

 

それから、初潮がきて、塾に通いはじめて、男子が変わってしまって、各種入卒業式をくりかえして、苦い恋もして、やっぱり何も変わってなかった。

 

調味料はたくさんほしいな、たまにはお花も飾りたい、デパ地下グルメをいっぱい食べたいし、でっかいソファに沈み込みたいな。

 

生活する楽しさを人間は本能で知っているんだわ。だから子どもの頃、狂ったように遊ぶんだわ。

私は本当によくわかってしまった。

 

本当のおままごとを、私はこれからどんな人とするのだろう。

生活の工夫をいっぱいにして、たくさんの生々しい生きてる楽しさの形跡を残して離れがたくなれたら、良いな。

 

 

SNSと恋愛

F自分なりに色々とSNS について考えたことを書いてみる。

今回は、「SNSと恋愛」という組み合わせは成り立たないんじゃないか。

と、かなり前から思っていたことを書いてみたいと思う。

きっかけは、友達との恋ばなで「LINE」や「Twitter」がらみの悩みをよく聞いたことだ。

「LINE」の返信が来ない、話が続かない、そっけない返信ばっかりでムカつく。

Twitter」で、自分以外の女の子とよく話してて嫉妬する。など。

LINEでされる他愛ない話は、会ってすれば30秒くらいで終わる話を、一週間くらいかけて話すこともある。それでも、そんなつながりに一方がすがりたいと、LINEの関係はずっと続く。
この時点で、一方のエゴを押し付けている気がする。

Twitterは、他の主要な投稿型のSNSInstagramFacebookに比べ、会話をすることが多い。

そこから、自分の恋人が、嫉妬対象になる人と話すと不安になるというのはよく聞く話だ。プロフィールに「○○以外の女がらみいらない」などの、嫉妬対象との会話をはじめからしないと宣言する人もいる。宣言しなければならない時点で恋愛にはむいてないツールと言えると思う。

ここからわかるのは、不特定多数に、自分が開かれ過ぎるということがTwitterなどの特徴で、恋愛にむいてない点だということだ。恋愛をしていたら、恋人だけに特別に言うことや、することがあるはずだ。しかし、SNSでは、恋人も知り合いも平等に情報は公開される。嫉妬するのもうなずける。

では、会話重視でない、InstagramFacebookはどうか。

まず、Instagramは前回書いた通り、日常をかなり美化した投稿が多い場である。
現実の自分とかなり解離した自分の演出から、好きな人に本当の自分をあやまって理解されたりその逆になったりするのではないか。

Facebookでも、もしかしたら同様のことが言えるのかもしれない。(はじめたばかりでわからないです🙇)

また、InstagramFacebookも、日常や感じたことを投稿するツールである。つまり、どんな自分だとしても、日常で接してるだけでは見えないところも見えるツールで、場合によっては、何年も会ってない人が、昨日何を食べたかも把握できるようなツールである。

このことは、映画「カサブランカ」のような、何年もあってないずっと想っている人との恋愛は成立しない、と言えるのではないか。カサブランカの主人公たちが、「今日はこれ食べた~」とか、承認欲求のために、「今の旦那とラブラブです~」なんて投稿していたら、本当はお互い想い合ってたなんて思う余地もなくなるだろう。
ロミオとジュリエットだって、InstagramやLINEを使いこなしていたら、あんなロマンチックな恋にはならなかったと思う。

以上から、SNSは、情報が平等に開かれ過ぎる点と、自分のエゴを満たす方へ走って現実の自分と解離するという点から、恋愛には向かないツールであると言える。

もちろん、SNSの利点を使って恋を実らせる人もいるが、従来のロマンチックラブだとはいえない(個人の感じ方による)と思う。

ヒス

ねえ💨💗✴

約束👫したのに

どうして❔❔

承認👍も

返信✉↩も

無し😒✋で

 

私👯は

やっぱり😭🔪で

変身✋✴✋

いつも通りに😊💗

曖昧🌀🌀

私👯💗🔪💗が

きっと怖い👿👤👤👿のね

青春💃🏃🏃💃ゾンビ🃏🃏🃏🃏

 

 

 

 

 

話せば話すほど解離する本質的な気持ち私は貴方といるときの私は真実じゃないと思っていますそれを貴方は感じ取ってくれていると思っていましたがいささか都合がよすぎるようですね外でお会い出来る機会が在れば証明出来ると思っていたのですがそれも叶わぬほど私は暴走してしまったのでしょうかならばとノスタルジー中指たててファンタジーを始める所存で何にも私に論理は不要です理路整然均一シンメトリーを私は文では作り出せません作り出せても偽物寒気の代物この壊れた文体でしかのびのびとしていられませんゆえ生きづらいのです貴方の中では

 

私の感性を怖がる貴方が好きだった

 

私に興味がないところが好き

 

SNSと私

私は今年19歳だから、SNSと一緒に育ってきた世代だと思う。

小6ではてなブログを始め、

中1でmixiTwitterを始め、

好きなアニメの2次元創作をする為のアメブロもしていた。(当時はアメーバピグが中学内でも流行していた。)

高校生になると、iPhoneを持ち始め、それまでパソコンでやっていたSNS との距離も物理的に近くなった。

ラインで友達と毎日連絡をとっていったし、Twitterで行った場所や友達とのプリクラをのせた。

彼ができたときは、ちょっとにおわせるようなツイートをした。友達のなかにはカップル共同アカウントを

作っている人もいたし、そこまでいかなくても、「付き合って○○月記念!」

みたいなツイートはよくみたし、機械的に「いいね!」を押していた。

 

気がついたときには、SNSを始めた頃の純粋な動機の「表現したい!見てもらいたい!」

が、いつのまにか「承認欲求満たしたい!」になっていた。

そして、いつまでもつづくラインもいやもなって、高2の夏に、スマホをやめてガラケーにした。

そんなに不便はなくて、むしろ、まとめサイトを徘徊して時間を無駄にすることもなくなって、気持ちにゆとりができた。


しかし、今年の春、第一志望だった国立の教育大に受かり、連絡手段でスマホがないと不便だろうと思い、

タブレットを使うことにした。実際、サークルや学科の連絡のためには必需品だった。


ついでに、スマホ買い換え記念に、流行りのInstagramを始めてみた。

でも、Instagramに投稿するために生きている錯覚におちいってやっぱりやめた。

れいな景色、おいしいご飯、友達との時間、すべてが「投稿しなきゃ!」に変わってしまう感じがした。

そんなこと、思わずに楽しむものなのかもしれないけれど、不器用な私にはムリですぐにやめた。


今まで、Twitterのアカウントは10個以上作った。

定期的に上のような理由で、いやになってやめてきた。


やめるまではいかなくても、私のような人は他にもいるはずだ。

私の好きな歌手の大森靖子さんの歌詞にこんなものがある。

 

「離婚したいなんてFacebookに書いとらんかったじゃんね 模倣的幸せに窒息しそうで鮮やかに逃げて」

 

SNS上にある「模倣的幸せ」にこだわる自分も、合わせる周りも、気がつくと現実の自分と解離が止まらなくなっていく。でもそれは自分だけだと思って、見て見ぬふりをして「模倣的幸せ」を求めていく…


ネットはどこまでが虚構で真実なのか、自分のことも、他人のこともわからなくなってしまう。

いつも私はそれがいやで「今、目の前の現実だけみよう」と思ってさまざまなSNS を退会してきた。

 

でもそれでは、初期衝動の「表現したい!見てもらいたい!」はいつまでたっても叶わないし、

大学生になってさまざまな「おもしろいひと」と出会って、

SNSを使って、興味や人間関係を広げたいと思うようになった。

 

またすぐやめちゃうかもだけど……うまく使っていきたいです。

 

心傷

もくもくと湯気が立ち込めるその街は、肉まんの皮のにおいと、剥がれかけの赤の壁、中華鍋で野菜を炒める音で満ちていた。

 

私は、だぼだぼの服でいつものようにその町へ行って、おかみさんから肉まんをもらったり、道で遊んでいる子供たちの面倒を見たり、鶏の世話をして一日を過ごす。

昼間は埃っぽい町でも、夜になれば赤色の飾り提灯に明かりが点り、つやつやとした真っ赤な町になる。

にんにくと笑い声とお酒のにおいがいつでも五感を刺激する。

屋根に上がると、藍の夜空に星が散らばり、下の町は赤く光っている。

 

目を閉じてうつらうつらする。

 

私はこっちにきてからなにも考えていなかった。

ただ毎日、食べて遊んで風景を見ているだけだった。

この毎日を続けられたらどんなに良いだろう。でもそうはいかない。現実はすごい。

 

あの人の面影を感じる場所にまた戻るというのは、出ていくよりも何倍も辛い。

 

 

私が彼女に出会ったのは夏の終わりで、

 彼女は私の通う大学の研究員だった。

私が研究室に資料を取りに行くと、彼女は、昨日発掘されたばかりの飛鳥時代の美術品についた土を、リスの毛のブラシで、長いまつげを伏せてはたはたと落としていた。

目が合うと、彼女は私に微笑んだ。

私は、また彼女と会うことになるだろうと、意識下で感じた。

 

 

そして二週間後、大学の真っ白で無機質な休憩室で彼女に会った時は、やはり、と思った。

二人きりの静かなその部屋には、自販機のヴーンという音だけがして、西日が射していた。

彼女は私の横へ座ると

「××××さん」

 と私の名前を言った。

私はさして驚きもせず

「はい」

と返事をした。

見つめ合うと、お互いの気持ちを手に取るように感じあった。

 

女同士の交信は一瞬でなされる。

 

彼女のディオールグロスと、私のイヴ・サンローラングロスが混ざりあって、熱をもって私の唇にまとわりついた。

 

 

彼女と私は連絡先を交換することもしなかったが、定期的にばったりと会って、大学内でひっそりと逢瀬を繰り返していた。

 

 

ある時彼女が「温泉にいきたいの」とグロスを塗り直しながら言ったのでC市の温泉旅館に泊まることになった。

私は彼女と居る間、ほとんど喋らず、表情もなかった。彼女自身もあまり喋らなかったが、いつも余裕そうな微笑みをたたえていた。

旅館でもいつもどおりだった。

 

 

私たちは、食べて、お互いの身体を触りあうことを繰り返していた。

大きな蛤の浜焼に彼女は艶々の唇を近づけ、白い歯で捕食した。ちゅっと短い音を立てて貝柱を吸い込んだ。

私は、地元のブランド牛を口のなか一杯に頬張って彼女のほうをじっと見る。デザートのケーキを、お互いに生クリームが色んなところについても気にしないで、見つめあって食べた。

会話もせず、捕食し続けた。本当に食べ物は食べ物でしかなく、海の匂いや山の湿った土のにおいを感じながら味わった。

 

 

彼女の指の這わせかたは予想がつかなくて全身の細胞が緊張に満ち官能を一瞬の隙もなく感じさせる。

これまで出会った幾つかの男の手順を私は完全に忘れてしまった。

温泉では人がいなくなるとぴったりと抱き合って、硝子の外に広がる、夜の真っ暗な海を見ていた。

お湯に包まれながら彼女と私の白い胸がふにゃりとくっついて、じっと黙っている私は、まるで赤ん坊のようだと思った。

「海水は」

彼女が呟いた。

「海水は羊水の成分と98%同じなの。女は身体に海を一つ持ってるのよ」

抱き合って暗い海を見つめると海のうねりが生き物になって私を飲む。

ちゃぷんと私や彼女が動く度にお湯の音が響く。オレンジ色の照明がぽわんと灯っている。

彼女の湯船に浸ってない肌にキスするとひんやりと冷たかった。彼女の柔らかい肌に抱きしめられて、私は安心して目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

ある出来事から、愛する彼を受け入れられなくなってしまった。

彼は理不尽な私の出来事に、はじめは私を心配し、同情し、大切に扱ってくれた。

しかし時が経っても変わらない私に、困惑し始め、ある日

「減るもんじゃないのに」

と言った。

心も受け入れられなくなってしまった。

 

 

 

 

 

敷かれた糊のきいた布団はひんやりと心地よく、すぐに私たちは眠ってしまった。

耳元で、おやすみ、と私に声をかける彼女の柔らかい声と、髪を撫でられる感覚を遠くで感じ、心地よく、遠い幼かった頃の母の記憶を思い出した。

 

 

 

突然やってくる、不安や哀しみの発作から離れて、ただ安心して眠りたい。

 

今の私の願いはそれだけで、一般的に見たら不安定な関係でも、私の意識が安心していられる関係で、彼女は、一本の道の先で手招きしているように感じる。

ただ、歩くと決めたのは私自身だ。