淡い死の匂い

例えば、

好きだなあと思っている人とお話ししていて、私が好きだと思っていることが相手に伝わっていて、なお相手も私のことが嫌いじゃないということが、相手との目線から伝わりあってしまったり、

 

対話をしていて、お互いの話したいことがうまく伝わりあって、一人では考えられないような答えにまでたどり着いたとき、お互い声に出さなくても高揚している気持ちがわかりあうようなそんな瞬間だったり、

 

無言で歩いていても相手の存在が自分のなかにピタリと満たされピンと張った糸がお互いの間にあって少しのしぐさや言葉を意味のあるものととらえられたり。

 

 

そんな摩可不思議なテレパシーのようなものを人間同士、送受信するときがある。

 

説明すれば長くかかることを、相手の目をじっと見つめるだけでわかりあってしまう。

 

やさしい目線から読み取るメッセージでなにもかもすべてわかってしまう、そんな一瞬が私はとても好きだ。

 

そんなすばらしい一瞬は言葉なしにつくられる。だから、その一瞬を後から動詞だったり、形容詞だったりをつけるととっても白々しくなる。

 

思うに、となりにいるサラリーマンも、みんな、とってもドラマチックな日常を生きている。すばらしい出会いと、実った感動も、なにかやりとげた感動も、目線で通じあった幸せもあるはず。

でも、言語化しようとすればたちまち綺麗な花のような思いでは陳腐に枯れてしまう。#楽しかった の一部になってしまう。秘すれば花なのか。

 

それはあたりまえだと思う。

私は、文字と人間で現実を語れると思うことが傲慢だと思う。

目と目で通じたという瞬間、風景、気温、光の入りかた、空気の循環、そういった環境のすべての上で私の言葉は表れただけだ。だから環境を語らなければ、その場のすばらしい雰囲気や出来事は語れない。それが語られたものが小説である。

 

 

 

 

芸術、と聞いて、絵描きを思い浮かべるだろうか。

人間、子供のうちはだれでも芸術家なんだよ、と岡本太郎は言っていた。

自分の人生を作品としてとらえることができたら、人はみんな芸術家になれるのではないか。そのためには子供のように無垢であるがままにものごとを受け止めなければならない。

 

 

私は体験としての芸術をつくりたい。小説を書いて、読んだ人がありのままの気持ちになれるような小説を書きたい。

すばらしいドラマチックな日常の一瞬を、アレンジして届けたい。そのためにはどうしてもフィクションじゃなきゃいけない。

 

芸術家として生きるには、現実を現実として語るだけでは、作品としての人生に限りがある。

小説や芸術に触れて、抽象的なイメージを得て、自分の世界を更新する必要があると思う。それを教養と一般にはいうと思う。

 

 

作品としての人生というと、完成させなければ、と思うかもしれない。でも、完成なんてありえないと思う。

第一、全生物明日死ぬかもしれない身で長期目標というのも無理がある。朝と夜の積み重ねが年月ならば、私は瞬間を信じたいし、瞬間にベストを尽くせないなら、長生きしても仕方がないと自分についてだけれど、そう思う。

 

 

私の座右の銘は、「すべての人間の死因はうまれたことである」

という池田晶子さんの言葉と、「メメント・モリ」〈死を想え〉という言葉だ。

私はどうしても、自分が生きているということを実感していたい。つまりは、いつか死ぬということを実感し続けたい。

だから、表現することが大好きだし、しなくてはならない、と思っている。

 

死ぬということは確実に私たちの近くに存在している。

資本主義は、横死の心配をしなくてもいいと思わせることが一番の功績だと何かの本にかいてあった。

肝心なのは「思わせる」というところだ。

 

今日はソープランドの火災で、女の子とお客さんが亡くなったらしい。

狭い、特殊な作りの部屋で、仕事を頑張って逃げ遅れた女の子達のことを思うと涙が出る。

 

でも、そういう世界なんだと思う。どれだけ不幸や負けが続いても知らん顔で世の中は進んでゆくし、風化してゆく。誰かがひとり悲しくて死んでしまいそうでも関係なく進んでいく。

人が助けるといっても、ずっとそばにいれるわけじゃない。

つらいと声をあげても、被害妄想だと心なくいわれたりする。

どこかで本人が強くなるしかないのだ。

 

だから、強い人を見ると、本当にがんばってきたんですね、と思うし、同時に、大丈夫かな、無理してないかな?と思う。

 

 

私は、現実に期待していない。

現実はツラい、理不尽。そんなことがつづくから。

でも、私は現実が好きだ。

すばらしいこともたくさんあるし、人にもたくさん出会えた。

 

だから、現実に期待していない私だから、現実の言葉じゃなくて、フィクションで、傷ついている人を癒したい。

ガシガシと現実を生きれないとき、私の側にいてくれたのは文学だった。

もっとありのまま、芸術家として生きられるんだよ、と思いながら小娘ながら書きたい。

ただそれ以上に、私の書いたものに意図はなく、それぞれがそれぞれ読んだとき立ち上らせたイメージがすべて正解!でいてほしいな、と思う。そこも小説のすばらしいところだ。

 

 

そのために、前回にも書いたけれど、やはり世にでなくては、と思う。

本当に現実は厳しい。だからこそ、やっぱり、芸術は抜け道として存在しなくてはいけないと思う。