ん
いつも感情の掃き溜めのようだけど
今回は何時にもましてさうなので申し訳ないけれど。
もう何もかもが怖くて仕方ないって気持ちでいっぱいになってどうしたらいいかわかりません。
私が今、本を読んだり、友達とおしゃべりをしていたりできるということがどれほどの奇跡なのでしょうか。
別に綺麗事を言うつもりはなくて、寧ろ消極的で。
今日、例えば南海トラフ地震が起きたら、狂った人になぶり殺されたら、電車のホームで突き飛ばされたら、ビルの上の鉄骨が落ちてきたら。
どんなことでもあり得る世の中が怖くて仕方なくて、今私が五体満足に生きているということが実はとても脆いことだと知って、ふらふらとしゃがみこんでしまいさうです。
この先どんなに怖いことが待っているのだろうと思うと、幸せなうちに自分でけりをつけたいと思う人もいるかもしれません。私は怖くて口にできませんが。
…いいえ。私は死ぬこと自体は怖くありません。何かに遭って、体が満足に動かない状態で生かされたり、家族や友達に不幸があるのが耐えられないのです。
その悲しみは、私をがんじがらめにします。楽しい空想も、音楽も、アイドルも、本も、すべてが灰色になってしまいます。
好きなものがたくさんあって、それに救われてきた私はそれも耐えられないのです。
悲しい思いをしたくないから、大事な人が、これ以上増えなければ良いと思うこともあります。
春休み、理不尽で、他人の我儘思いで自分が死んだり脅かされたりしたらどうするんだ、ということを考えていました。
怖くて、怖くて、インフルエンザになったときに見るような、全体が私を包んで、これが世の中だ、安全なんて何処にもないんだぞ。と押し潰してくる感覚を薄めたものをずっと腑の中に浸しているやうでした。
そんな濁った水を取り替えてくれたのは、母子手帳、友達からの手紙でした。
私のことをこんなに思ってくれる人がいたんだ、私の存在意義を、こんな小娘ながら世の中と、人と繋がれたならそれで良いんだ。味方がたくさんいるんだ、そう思えました。
一人じゃないという月並みな答えが私の真理なんだと感じました。
「宗教」考えてみたけれど、私は概念より実体を愛します。目の前にいる友達が私の真理なので、教養としては好きだけれど、信条にはしないかな、と思います。仏教の『維摩経』とか好きですけど。
なんだか人に会いたくなってきました。まっすぐ日の当たるところに生きてるひとはみんな好きです。人に危害を、身体、貞操、命にかかわる恐怖を与えないひとという意味です。
こんなこと、考えてしまう私はなんだろう、と思います。
たまに世の中の知らないひとがみんな怖くて仕方なくなります。
これが私なのだという諦めと、だからこそみんなの暖かさが身に染みて幸せであったかいのだと感じられて、感覚が、不幸も幸せも敏感に反応してしまうからどうしていいかわからなくなってしまうけれど、将来不幸になったとしても、今は幸せだからもっとこういう私の存在意義を打ち立てたいって思います。
不幸って何か、可哀想な人はいない。
怖い、けど仕方ない。