「ばらばらハートであいらびゅー」

多様性を認めるという意見が世界を席巻しさまざまな分野で多様性を認めるよう言われている。LGBTも人種も多数決の少数派も猫派も性癖も。「差別じゃなくて、区別だよ」小学生の私に友達がいい放った言葉が、ねっとりとした笑顔の張り付いた光景と共に蘇る。「普通」とは何をもって普通とするのかということを考えると日々の生活のさまざまなものが疑わしくなり、人間が作り出したものが虚構と化していくように見えるのではないか。私はそこまでの偏りがないので虚構の具現であるブランドバックも眼鏡理系イケメンも大好きである。型にはめずに生きるというのはむずかしくてはたから見ると危険思想人物となってしまうだろう。結婚しないで、既婚者と恋愛していたら、きっと親には泣かれる。でもその倫理観って誰が作ったの。システムひとつ作るごとにマイノリティーを作っている文化の片棒を担いでいるのは誰か。しかし私のこの文章もひとつの価値観の押し付けに過ぎず、妄信的にならないようにしなければならない。でも、私の主張自体は多様性を認めよう、という意見である。ただ、多様性を認めないという多様性は今の私は認められない。でもそれでいい。1950年代には怒りに満ちた大学生が大学を占拠して戦った。でも私はそんな闘争心はなく、いちいち自分を客観視して折衷しようと試みるが、それもまたそれでいい。私の理想は、揺らす存在になることだから。今は勉強に置いて私は思春期だから、あとしばらくしたら嫌でも諦めと悟りがやってきて自分のものになるから、周りはせいぜい揺れてほしい。