悪い人ははじめから悪い人を名乗ってください

小学校四年生くらいの頃、近所の本屋に自転車に乗って行った帰り、大学生くらいの茶髪のかっこいいお兄さん呼び止められた。

 

あの!って

呼び止められて、すぐそばにあるTSUTAYAへの行き方を聞かれた。

たぶん道聞かれたのはじめてだったのかな、なんか頼りにされて嬉しくて、しっかりと教えた。

そうするとお兄さん、すっかり喜んで、身の上話を始めた。

 

この町に来て日が浅いこと、友達が全然居ないこと。

私は心から同情して、お兄さんの純粋そうなきらきらした目を見ていた。

 

そうしてお兄さんが「よかったら友達になってくれませんか…?」といった。私は喜んで引き受けた。大人に敬語を使われることも、友達になることもはじめてだったからわくわくした。

 

それから、お兄さんは携帯持ってるか聞いてきた。持ってないと答えると家の番号を教えてほしいと言った。番号とかを教えるのはよくない、という学校の教えがいきなり前に出てきた。

私は、番号を教えられない旨を告げるとお兄さんは「そうだよね」と力なく笑って、またね、と言った。

 

帰り道、私は心から申し訳なかった。友達になってって言ってくれたさみしい人を一概に悪いもの扱いした自分が悲しかった。

 

帰ってお母さんに一連の話を告げると、むしろそこまで話をしていたことを怒られた。友達になりたいなんて嘘で、犯罪をするつもりなんだと言った。私はあのとき断ってよかったと思った。世の中、そういうものなんだと理解した。

 

 

 

 

 

何年もたって、私は女子高生になった。

あるひ

名駅でおじさんから「友達になってください」と言われた。

私は「あー…」と少し考えた。

友達、このおじさんはなにかさみしいのかな、大丈夫かな?そう思って「いいですよ」と言った。

そのあとおじさんは「カラオケ行かない?」とにやにや笑っていった。流石に察知して断った。そのあとの友達との予定はあんまり楽しめなかった。

 いま思うと小4からなにも変わってない。

 

それからは私は無視が上手くなった。声をかけられたらとにかく無視。

気が抜けていて答えてしまうと、たいていカラオケ、ホテル、キャバクラスカウト。私ってそんなに下品に見えるのかな、悲しくなる。

 

聖書の話、右翼、左翼、募金、信号待ちで名前を書くやつも全部聞いては、まともに知ろうとしてはいけないのです。それぞれ、これは正しい、悪い、そんなことやってると傷つくのは私なんです。

 

 

本当に友達になりたくて道で声をかける人なんてこの世にいないんです。

 

 

名駅にて。

ひょろっとしたお兄さんが呆然としていた。そうして、横をすぎる私に声をかけた。私は無視をした。

そうして途端に意識が襲ってきた。あの人は、なにか困っているのかもしれない。それなのに悪い人だと勘違いした人々に無視をされ続けている被害者なのかもしれない、と思った。

 

私は道を引き返してお兄さんに「どうしました?」と聞いた。お兄さんは何かの勧誘の話を始めた。私は理解して話を制止して、ごめんなさい、道に迷ったとかなにか困られてるのかと思って聞いたんです、そういうお話なら私は大丈夫ですごめんなさい。と言った。

 

名駅からささしままで歩かないであおなみ線を使います。私には判断しかねて心がクタクタになってしまうので数百円払うのを選びます。

 

 

 

こんなんなのに、人生の時が流れてないような裏側にいて本当に小学生の友達が必要な人、そんな人は何処かにいると思えてしまいます。こんなことを考えているから、弱味につけこまれることが多いんだとわかってはいて、さらに傷ついて自意識過剰になってめんどくさくなるのに、捨てられないんです。

 でも別に私優しいわけじゃないんです。容赦ないです。アルテミスメンタルなんです。

 

 

悪い人ははじめから悪い顔をしてください。悪い人だと名乗ってください。

悪いことがしたいなら悪いことしたいって言ってください。

「友達になりたい」なんて歪めないでください。

だから私たちいつも裏をかくようになってしまいました。

 

 

 

 

 

 

中立を装って介入したいボーイとガール

 

あーー

なるほど、今僕はマウント取られてるんだな。

 

喫茶店のおだやかな空気と時間の流れ、久々に会った友達の微笑み。

 

 

「○○○とかいう活動とかどうなんだろうね、結局自己満でしょ」

 

○○○を僕はやっていないけれど、僕がそこに親いことをしているのを彼女は知っている。さっきまでのいい雰囲気を称える彼女の少し上がった口角と、ずっと思っていたであろう僕への悪意を滲ませた言葉に比例して、上目遣いでこちらを伺っている。

 

僕は適当に相づちを打つ。心には汚点がポツンと残る。汚点がチクチクと痛む。

カップの底に残った真っ黒のコーヒーを見つめる。

 

 

「サークルどう?」

 

「楽しいよ。前話した先輩がさあ…」

 

彼女はサークルの内輪ネタを始めた。うんうん、と右に口角を上げながら僕は聞いた。ときどきiPhoneを取り出し「この人が○○先輩」と写真を指差して説明した。

 

「がんばってね、応援してる」

僕がそういうと彼女は嬉しそうに頷いて自分の隣に置いた楽器ケースに目をやった。

 

うだうだと話していると、高校時代の同級生の話になった。

「○○も○○も彼氏できたんだってー」

 

「へー!知らんかった」

 

久々にする他愛もない話、楽しかった。

 

 

でも彼女が、僕の部活時代の友達の話をはじめた。次第に僕の雲行きが怪しくなる。馴染みある人の名前ばかりなのに、妙によそよそしく、後ろめたくなる。

 

「○○○は大学でも野球続けてるんだって、部活ですごい頑張ってるって」

「どうして▲▲は野球続けなかったの?」

 

 

あ、と思った。でも思うより言葉が先に出ていた。

言える、僕がさっき心に落ちた汚点を今、晴らせる。

 

 

「大学生になってまでそういうのに打ち込むのってどうなんかな」

「野球ずっと続けて四年生になったときに何が残る?将来のこともっと考えたり、自分を理解する必要があるだろ」

 

 

彼女の表情が少し曇った。でも止まらなかった。

 

「続けることに意味があるって言う人はいるけどコスパ悪いんだよ、それって。他のコンテンツでもっと多角的に知れることだと思う。結局経験ってすごく主観に頼ってるものだと思うから」

 

そう言うと僕の心に落ちた汚点は消えた。

 

僕は彼女のことを批判したり、彼女の生き方を否定した訳じゃない。あくまで、○○○のことを言ったのだ。僕の生き方に考えたら、のことを言ったのだ。

 

 

表向きには。

 

 

 

話はすぐに切り替わった。

彼女は僕を褒めた。まっすぐな目で。すごいよ、と僕がこの二年年半でしてきたことを褒めた。

 

「▲▲はさ、高校の時からみんなと同じことしてても、視点が面白かったもんね」

 

彼女の目は嘘を言っていなかった。

僕はさっき、暗に彼女を批判したことが恥ずかしくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

半分楽しみ、半分憂鬱で▲▲に会ったけれど、会ってからは憂鬱が勝っちゃったな。

 

あたしは▲▲と喫茶店で別れてからコンビニに寄ってアイシングクッキーを買った。電車が来るまで20分。さみしいから、あたしは閑散とした駅のホームで、ベンチに座ってクッキーを食べることにした。

 

もうすっかり夜の始まりで、遠くの住宅街に夕日の名残が見えるだけだった。

 

▲▲はどこを見ているのだろうか。

 

ずっとそう思っていた。だから会うのが楽しみなはずなのに半分憂鬱だった。

 

SNSの投稿も、人づてに聞いた話も、▲▲が何をしているのかわからなかった。

いや、していることはわかる。でもわからないの、▲▲の気持ちや温度が。

 

 

でも、これってあたしの逃避なのかな。しっかりこれから先の自分の人生や、変わっていく社会を捉えようとしている▲▲は、サークルに明け暮れるあたしからしたら目を背けたい、夏休みの課題みたいなもんなのかもしれない。

 

ゴリゴリとクッキーを噛み砕く。もっと噛み砕きたい、クッキーの味よりも噛み砕くという動作を私は欲している。

プアーーーっと目の前を通っていく快速電車も痛快だった。もっと凄まじい速さ、固さ、痛みが欲しかった。こんなジクジクしたことで頭を使いたくない。ああ、と楽器ケースを撫でた。吹きたいな、と思った。

 

一つだけあたしがちゃんと体感で▲▲に言えることがある。

▲▲は、私よりたくさんの人に会って、話して、いろんな本を読んでいるのかもしれない。大人の人といっぱいお話しして、社会を知ってるのかもしれない。

でもさ、私が見てる景色を否定できるわけじゃないんだよ。

 

どうして一つのことに打ち込んでる人が視野が狭いとかって言えるの、

私が見てきたもの、感じてきたこと、言葉にして理解していくこと、私だって出来るようになったよ。

 

いまの▲▲は損得で人を選んでいるようにしか思えない、貧相だと思った。

 

うん、そうだ、と思いながらあたしはノロノロとホームにやってきた普通電車に乗った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎◎と喫茶店別れてから、僕は歩いて5分ほどあるチェーンのコーヒーショップに入った。

コーヒーの味は正直なんでも良かった。コーヒーはいわば場所代だ。

 

パソコンを開くと、手帳に書いた構想を元に、文章を書いていく。知り合いの人が運営するサイトで隔週連載をしているのだ。

 

「自分の強みのみつけかた」

昨日の大学の講義の間で考えたタイトルを入力して手が止まった。

 

 

 

◎◎が僕に言ってくれた言葉を思い出していた。

 

 

 

「▲▲はさ、高校の時からみんなと同じことしてても、視点が面白かったもんね」

 

 

うれしかった。

でも◎◎こそ、視点が面白いし鋭いと今になって思う。

じゃなきゃ僕の個性とかに高校時代で気づけないだろう。

◎◎のことを僕はすごいと思っている。だからこそ勿体ないと思う。

◎◎に会わせたい人がたくさんいる。◎◎がもっと花開いてもらえたら良いのに、と僕は思う。

 

 

 

 

「自分の強みのみつけかた」

手帳に書いた下書きの中に、「視野を広げる」を書き足した。

 

 

あたし性格悪いからあの子の悪口絶対言わない

 

Twitter太宰治の「女生徒」のbotがある。高校生の私はフォローしていて、たまにいいねをしていた。

 

なにか忘れたけど、ある日私はいらいらしていた。

そんな時に、タイムラインに「女生徒」botが流れてきて、私はその時の感情にぴったりでリツイートをした。

「こんなくだらない事に平然となれる様に、早く強く、清く、なりたかった。」

 

暫くすると、通知が来た。私のリツイートした言葉を、地元の友達がいいねしたのだ。

その子はお世辞にも勉強ができるといえない、ちょっとヤンキーな子だ。

そんな子から通知が来たことに私は感動した。

文学は別に高尚なものでもなんでもないと確信した。

太宰治の文学だからとかじゃなくて、ただその言葉にその子は共感していいねをしたのだろう。

 

文学ははみ出しものとか儘ならない感情のためにやっぱりあるのだ。真面目な文学少女のためにあるわけじゃない。

 

 

 

精神的な意味で、ブスになるときと女神になるときが私にはある

 

ブスモードは兎に角ブスで、妬み、嫉妬、攻撃性、被害妄想そんなことで頭がいっぱいになる。

 

女神モードは対照的に世の中の人全てが好きになる。朝の電車で、同じ車両の人達に、心から、今日一日幸せに過ごしてくださいと涙が出るくらい思う。

 

高校生の頃は頻繁にブスと女神が入れ替わり立ち代わりしていた。

今は、というとあまりどちらも出現せずどっしりと「まあぼちぼちやな」とおばさんが構えているような感覚がする。なんだかすこし寂しい気がするけれど、思春期は終わったんだな、と思う。

でもたまにだけれど猛烈に、ブスにも女神にも未だになる。ヒスと母性は紙一重なんだろうな。

 

純粋に知りたいのだけれど、他の人はこういうことないのかな?特にブスモードをどうやり過ごしているのか知りたい。

 

あと、暴走する裏垢や彼氏とのケンカも、事象そのものよりブスモードに起因している気がするから男の人も知って損はない気がする。

 

 

ホルモンバランス、というものが全ての正体かなと思う。

高校生の時、1ヶ月のある日はかならずアホみたいに悲しくなって泣いていた。

そして次の日、ホルモンのせいだとわかって「なるほど」と思って悲しさは全くなくなる。

 

 

男女差という言葉を言うのを最近憚っていたのだけれど、体感としてあるものはあるので言わざるを得ずと思う。

 

 

 ブスモードは兎に角めんどくさい。

キラキラした人を見ると悪意が総動員される。

そんなときには、私は文学が一番かなと思っている。

文学にはクズがたくさん出てくる。でも、どんなクズでも、作品だから肯定してくれる。文学のそういうところに私は何度も救われてきた。

 

だから文学は、ブスにこそやさしく開かれる。読解力とかそんなものは関係ない。ブス力の高い人にこそ開かれるのだ。私が文学が大好きなのは、つまりそういうことなのだ。

淡い死の匂い

例えば、

好きだなあと思っている人とお話ししていて、私が好きだと思っていることが相手に伝わっていて、なお相手も私のことが嫌いじゃないということが、相手との目線から伝わりあってしまったり、

 

対話をしていて、お互いの話したいことがうまく伝わりあって、一人では考えられないような答えにまでたどり着いたとき、お互い声に出さなくても高揚している気持ちがわかりあうようなそんな瞬間だったり、

 

無言で歩いていても相手の存在が自分のなかにピタリと満たされピンと張った糸がお互いの間にあって少しのしぐさや言葉を意味のあるものととらえられたり。

 

 

そんな摩可不思議なテレパシーのようなものを人間同士、送受信するときがある。

 

説明すれば長くかかることを、相手の目をじっと見つめるだけでわかりあってしまう。

 

やさしい目線から読み取るメッセージでなにもかもすべてわかってしまう、そんな一瞬が私はとても好きだ。

 

そんなすばらしい一瞬は言葉なしにつくられる。だから、その一瞬を後から動詞だったり、形容詞だったりをつけるととっても白々しくなる。

 

思うに、となりにいるサラリーマンも、みんな、とってもドラマチックな日常を生きている。すばらしい出会いと、実った感動も、なにかやりとげた感動も、目線で通じあった幸せもあるはず。

でも、言語化しようとすればたちまち綺麗な花のような思いでは陳腐に枯れてしまう。#楽しかった の一部になってしまう。秘すれば花なのか。

 

それはあたりまえだと思う。

私は、文字と人間で現実を語れると思うことが傲慢だと思う。

目と目で通じたという瞬間、風景、気温、光の入りかた、空気の循環、そういった環境のすべての上で私の言葉は表れただけだ。だから環境を語らなければ、その場のすばらしい雰囲気や出来事は語れない。それが語られたものが小説である。

 

 

 

 

芸術、と聞いて、絵描きを思い浮かべるだろうか。

人間、子供のうちはだれでも芸術家なんだよ、と岡本太郎は言っていた。

自分の人生を作品としてとらえることができたら、人はみんな芸術家になれるのではないか。そのためには子供のように無垢であるがままにものごとを受け止めなければならない。

 

 

私は体験としての芸術をつくりたい。小説を書いて、読んだ人がありのままの気持ちになれるような小説を書きたい。

すばらしいドラマチックな日常の一瞬を、アレンジして届けたい。そのためにはどうしてもフィクションじゃなきゃいけない。

 

芸術家として生きるには、現実を現実として語るだけでは、作品としての人生に限りがある。

小説や芸術に触れて、抽象的なイメージを得て、自分の世界を更新する必要があると思う。それを教養と一般にはいうと思う。

 

 

作品としての人生というと、完成させなければ、と思うかもしれない。でも、完成なんてありえないと思う。

第一、全生物明日死ぬかもしれない身で長期目標というのも無理がある。朝と夜の積み重ねが年月ならば、私は瞬間を信じたいし、瞬間にベストを尽くせないなら、長生きしても仕方がないと自分についてだけれど、そう思う。

 

 

私の座右の銘は、「すべての人間の死因はうまれたことである」

という池田晶子さんの言葉と、「メメント・モリ」〈死を想え〉という言葉だ。

私はどうしても、自分が生きているということを実感していたい。つまりは、いつか死ぬということを実感し続けたい。

だから、表現することが大好きだし、しなくてはならない、と思っている。

 

死ぬということは確実に私たちの近くに存在している。

資本主義は、横死の心配をしなくてもいいと思わせることが一番の功績だと何かの本にかいてあった。

肝心なのは「思わせる」というところだ。

 

今日はソープランドの火災で、女の子とお客さんが亡くなったらしい。

狭い、特殊な作りの部屋で、仕事を頑張って逃げ遅れた女の子達のことを思うと涙が出る。

 

でも、そういう世界なんだと思う。どれだけ不幸や負けが続いても知らん顔で世の中は進んでゆくし、風化してゆく。誰かがひとり悲しくて死んでしまいそうでも関係なく進んでいく。

人が助けるといっても、ずっとそばにいれるわけじゃない。

つらいと声をあげても、被害妄想だと心なくいわれたりする。

どこかで本人が強くなるしかないのだ。

 

だから、強い人を見ると、本当にがんばってきたんですね、と思うし、同時に、大丈夫かな、無理してないかな?と思う。

 

 

私は、現実に期待していない。

現実はツラい、理不尽。そんなことがつづくから。

でも、私は現実が好きだ。

すばらしいこともたくさんあるし、人にもたくさん出会えた。

 

だから、現実に期待していない私だから、現実の言葉じゃなくて、フィクションで、傷ついている人を癒したい。

ガシガシと現実を生きれないとき、私の側にいてくれたのは文学だった。

もっとありのまま、芸術家として生きられるんだよ、と思いながら小娘ながら書きたい。

ただそれ以上に、私の書いたものに意図はなく、それぞれがそれぞれ読んだとき立ち上らせたイメージがすべて正解!でいてほしいな、と思う。そこも小説のすばらしいところだ。

 

 

そのために、前回にも書いたけれど、やはり世にでなくては、と思う。

本当に現実は厳しい。だからこそ、やっぱり、芸術は抜け道として存在しなくてはいけないと思う。

 

世にでなくては

最近やっと、自分が書きたいものを書くことができるようになってきた。

やっぱり私は小説(フィクション)媒体が一番のびのび書けることがわかったし、何より楽しい!って思えるようになってきた。

 

小説自体は9才くらいからずっと書いている。でも、ここ何年もずっとスランプで、最後まで物語を書ききれなくて、ムキー!ってなっていた。それでも書かなきゃ気がすまなくて書いてた。

 

だから今、どんどん書けるのがとってもうれしいし、今がチャンスだなって思ってる。

私の憧れの作家の何名かは私ぐらいの年から活躍している。中1の頃から憧れの椎名林檎さんも19才でデビューしている。

はやく世にでなければ、と思うけれど、有名になりたいから書くわけでもないからな…と立ち止まる。

 

 

小説家の書きたい!の動機には、いろんな種類があると思う。


世界観やキャラクターの面白さを書きたい

伝えたい人生観を伝えたい

心を動かしたい

気に入った描写があって、それを書きたい

などなど…

今の私は、伝えたい描写や人生観みたいなものがあって書きたいのだけれど、でも、厚かましく押し付けたい訳じゃなくて、
物語を媒介してなんとなく雰囲気は作るから、読んだ人それぞれで感じ取って、その人にとっての物語にしてほしい!って思っている。

私は最近人とお話しするときに、うまく伝えられない、と思っていた。きっとそれは自我が入るからかなーと思う。私はこう思う、わかって!!ってどうしても思ってしまうし、わかってもらえないと、相手を侮ってしまう。そんな自分が嫌で自己嫌悪もしてしまう。
最近私がよく考えていることは、抽象的すぎてうまく伝えられる自信が本当にない。


だからこそ、私の自我から書かれているけれど文章として独立して、読んだ人が意味付けして何度も読みたくなるような小説を書く。

 

あと関係ないけどなんかもうちょっと素直な子になろうと思う……。🐧

 

 

 

いつも感情の掃き溜めのようだけど

今回は何時にもましてさうなので申し訳ないけれど。

もう何もかもが怖くて仕方ないって気持ちでいっぱいになってどうしたらいいかわかりません。

私が今、本を読んだり、友達とおしゃべりをしていたりできるということがどれほどの奇跡なのでしょうか。

別に綺麗事を言うつもりはなくて、寧ろ消極的で。

今日、例えば南海トラフ地震が起きたら、狂った人になぶり殺されたら、電車のホームで突き飛ばされたら、ビルの上の鉄骨が落ちてきたら。

どんなことでもあり得る世の中が怖くて仕方なくて、今私が五体満足に生きているということが実はとても脆いことだと知って、ふらふらとしゃがみこんでしまいさうです。

この先どんなに怖いことが待っているのだろうと思うと、幸せなうちに自分でけりをつけたいと思う人もいるかもしれません。私は怖くて口にできませんが。

…いいえ。私は死ぬこと自体は怖くありません。何かに遭って、体が満足に動かない状態で生かされたり、家族や友達に不幸があるのが耐えられないのです。

その悲しみは、私をがんじがらめにします。楽しい空想も、音楽も、アイドルも、本も、すべてが灰色になってしまいます。

好きなものがたくさんあって、それに救われてきた私はそれも耐えられないのです。

悲しい思いをしたくないから、大事な人が、これ以上増えなければ良いと思うこともあります。

 

 

春休み、理不尽で、他人の我儘思いで自分が死んだり脅かされたりしたらどうするんだ、ということを考えていました。

怖くて、怖くて、インフルエンザになったときに見るような、全体が私を包んで、これが世の中だ、安全なんて何処にもないんだぞ。と押し潰してくる感覚を薄めたものをずっと腑の中に浸しているやうでした。

そんな濁った水を取り替えてくれたのは、母子手帳、友達からの手紙でした。

私のことをこんなに思ってくれる人がいたんだ、私の存在意義を、こんな小娘ながら世の中と、人と繋がれたならそれで良いんだ。味方がたくさんいるんだ、そう思えました。

 

一人じゃないという月並みな答えが私の真理なんだと感じました。

「宗教」考えてみたけれど、私は概念より実体を愛します。目の前にいる友達が私の真理なので、教養としては好きだけれど、信条にはしないかな、と思います。仏教の『維摩経』とか好きですけど。

なんだか人に会いたくなってきました。まっすぐ日の当たるところに生きてるひとはみんな好きです。人に危害を、身体、貞操、命にかかわる恐怖を与えないひとという意味です。

 

こんなこと、考えてしまう私はなんだろう、と思います。

たまに世の中の知らないひとがみんな怖くて仕方なくなります。

これが私なのだという諦めと、だからこそみんなの暖かさが身に染みて幸せであったかいのだと感じられて、感覚が、不幸も幸せも敏感に反応してしまうからどうしていいかわからなくなってしまうけれど、将来不幸になったとしても、今は幸せだからもっとこういう私の存在意義を打ち立てたいって思います。

不幸って何か、可哀想な人はいない。

怖い、けど仕方ない。

delcorazon

夕方の空は薄いピンクと紫と水色。

浜辺に建つ、薄紫のシルクでできた、サーカステント。

すぐそばで波打つ海水が甘やかな音をたてて、満ちようとしている。

テントのすこし向こうは、うっそうと繁る南国のジャングル。

ポポポポポ…と何かの生き物が鳴いて、虫の声も響いている。

シダの濃い緑達が、少しもみじろきもせず、じわーーっとその緑を主張している。

サーカステントは、薄紫のシルクのカーテンがたくしあげられ、フリルが何層にも折り重なって、所々、豪奢な宝石がちりばめられている。

着飾った招待客の紳士淑女がテントへと談笑しながら入っていく。

テントの中から、軽快なラテンジャズが聴こえてきた。

招待客の笑い声や食器を重ねる音もが大きくなってきた。

私はハンドバッグから招待状を取り出し、テントの中へ入った。

 

 

 

テントのカーテンのたくしあげたフリルの向こう側の海からの潮風が中にもさわやかに漂っている。

海の果ての夕日が水面を照らしている。空は桃色でちぎられた薄紫の雲がひろがる。

天国のよう。

テントの中は、ラテンジャズと熱帯の立食ディナー。

ヌードピンクのパーティードレスとスワロフスキーのハイヒールの私。戦いのための衣装。

ハイヒールが歩きにくいだなんて先入観、誰が作ったのかしら。

 

紳士淑女の談笑。コンガのきざむリズム。

意識が私の背の後ろに行ってしまったよう。

私はこの場にいるけれど、意識はいない。

私の目的は別にあるのだから。

パーティーに来た招待客とは異質な思想を抱いて。

探している。

あの男を。

目を光らせる私は野生のしなやかな動物のよう。

熱帯のジャズと麗人のジャングルで、シャンパングラスを持って目を光らせる。

その時ふっと、あの人は皆が揃った頃にすこし遅れてやって来るのだわ、と気づいた。

注目をいつだって浴びたがりなのだったわ。

力を抜くと、ボーイにシャンパングラスを預けて化粧室へ。

象牙の猫の彫刻の口紅をハンドバックから出して、唇に塗る。

絶対に舐めてはダメ。

ドレスを太ももまでたくしあげると、太ももに巻いたベルトに刺してあるナイフを確認した。

念には念を。絶対に失敗できない。とても手強い相手。

私は、自分の身体がぞくぞくとするのを感じた。最高の官能。

鏡の中の私の黒目は光り、顔の陰影がくっきり現れている。

淡い照明の通路を抜けて、フロアへもどる。

ラテンジャズの軽快なリズムとトランペットの情熱的なソロでフロアは熱気が満ちてきている。

南国の花と料理でテーブルも色づいている。

そろそろだわ。

感じる、あの気配を。

大きな獣に睨まれたときのように、私の身体は硬直した。

いる…!あそこに……!

目線の先の淑女が動くと、ぎらぎらと主張する真っ黒なモーニングを着た奴の姿。

瞬間、私の眼のライトがパチンと消え、私と彼だけにスポットライトが当てられる。

嗅覚、聴覚も研ぎ澄まされて唯一点、彼捕らえる。

私の足の爪が地面を捕らえ、ゆっくりと蹴り、玉虫色に眼は光る。

彼は私の方をジロリと見た。

一瞬の交信。

私の感情はすべて読み取られ目の前が虹色に渦を巻いた。

虹色の渦が7つ眼前に浮かび、その中央で男が高笑いをしている。なんとしてもやりとげなくてはならないのに…なのに…

男はパーティーの華として、人々の称賛や眼差しを受けていた。私はかろうじて立って、シャンパンを気付けに飲んだ。

男は人並みから抜け、奥の通路の方へと向かっていた。

チャンスであるが、ここで仕留められなくてはこちらが殺られる。しっかりしなくては、と私は深呼吸していずまいを正した。